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カルチャーの発信地「原宿」の新たな魅力を掘り起こす。街の歴史を見続けてきた早川氏が考える原宿の未来とは

カルチャーの発信地「原宿」の新たな魅力を掘り起こす。街の歴史を見続けてきた早川氏が考える原宿の未来とは

隣接する表参道・青山エリアとは異なる独自の発展を遂げてきた「原宿」。長年にわたり日本のファッションシーンを牽引してきたのみならす、世界中から常に注目を集めるエネルギーに満ちた街だ。そんな原宿で長年ファッションビジネスに携わり、街づくりや地域貢献の面でも功績をあげてきた早川氏に、原宿という街の変遷や魅力、新たなカルチャー発信の取り組みなどについて伺った。

早川 千秋さん/原宿神宮前商店会 会長・株式会社ジム 専務取締役
東京生まれ。幼少時を神奈川県横浜市で過ごし、小学6年生の時に初めて見た『表参道』へ憧れを抱く。中高生活を福岡で送った後、大学進学のため上京。新卒で証券会社へ就職した後、当時原宿本社があった株式会社レナウンに転職。法人営業、財務部門を経験後、原宿に根差すメンズニットブランド・株式会社gim(ジム)へ入社。商品企画、メンズ及びレディースブランド開発などさまざまな事業を手掛けてきた。現在は株式会社gimの役員を務める傍ら、原宿神宮前商店会会長として、街の活性化に尽力している。

金融業界から転身し、幼少期に憧れた場所で働く道を選択。ファッショントレンドを発信し続けてきた

証券会社からキャリアをスタートされた早川さんが、アパレルの世界に転身した理由はなんだったのでしょうか。

私の学生時代はバブル景気の真っ只中。OBの多くが銀行や証券、生損保など金融業界に進んでおり、自分もグローバルな仕事をしたいと考えていました。そこで証券業界の中でも海外事業に強い証券会社への入社を決めました。バブルが崩壊する直前のことです。新人研修を経て配属された基幹店舗では新規開拓の日々。金融業界は自社商品を開発しにくいこともあって他社との差別化が難しく、そう簡単に取引をさせてもらえません。それでも粘り強く訪問し、手紙で誠意を伝えることで大きな取引に結びついたことは、今振り返ってもよい経験になったと思います。

そんなある日、仲のよかった同期に転職の相談をされたのです。「今のキャリアをベースにして転職するのもありだな」と思いました。そして、小学6年生の時に表参道の風景を見て、「この街はすごい。将来ここに住みたい」と感じたことを思い出したのです。

転職先に選んだのは、当時本社が原宿にあったレナウンです。世界のさまざまなブランドを扱っているところも魅力でした。

― レナウンでどのような経験をされたのですか。そしてgimへ転職されたきっかけは?

レナウンに入社したのはバブル崩壊の年です。配属先は婦人服の百貨店へのルート営業。原宿で働けると思っていたのに、営業部隊の拠点は門前仲町でした(笑)。約3年営業を経験した後、ジョブローテーションで原宿本社の財務部門に移り、資金運用及び決算財務諸表作成を担当しました。ちょうどその頃、たまたまのご縁があって、1965年に原宿で創業したメンズニットブランドのgim(ジム)へ転職。原宿に住み、服飾専門学校で1年間デザイン制作を学んだのち、gimの商品企画を担当しつつ、小売事業を担う関連会社の経営も引き継ぎました。

そこでは、新人クリエーターを発掘し、親会社であるジムのメーカー機能を活用してレディースのオリジナル商品を発表。それが原宿Kawaii系ファッションの最先端を行くゴシックアンドロリータブランドとして国内のみならず海外でも大人気となり、フランス、アメリカ、アジアの展示会に招待されたり、海外出店、アイドルに衣装提供もしました。他にもアメカジインポートショップ、エシカル・ナチュラル系ショップなども手掛け、さまざまなファッションジャンルの方々と出会うこともできました。

gim(ジム)は老舗ニットブランドとして、ものづくりを大事にしており、大手百貨店やデザイナーズブランドなど幅広い企業と取引をしている

ホコ天、裏原系、Kawaiiファッション。カルチャーを発信し続けてきた街・原宿

― 親会社では堅実経営をしつつ、関連会社では新しいビジネスを創っていく。そんな30年だったのですね。

はい。そうすると今後は地域貢献を考えるようになりました。30年原宿に住み、暮らし、会社経営してたからこそ見えてくるものがあるんですよ。

江戸時代の原宿は、当時の中心地だった浅草や日本橋から離れた田園地帯。葛飾北斎の富嶽三十六景で描かれた『隠田の水車』は、まさに原宿の風景で、当時の隠田川の上にあるのが現在のキャットストリートです。そして約100年前に明治神宮が創建されて参道ができ、戦後在日米軍施設ができアメリカ文化が入ってきた。またセントラルアパート、同潤会青山アパートにはさまざまなクリエーターが集まりました。さらに1964年の東京オリンピックを機に街が整備され、1970年代から90年代にかけては、ホコ天(歩行者天国)から竹の子族やホコ天バンドなどの若者文化を発信していきました。

― カルチャーの発信地である原宿を間近で見てきて、どのようなことを感じますか。

ファッションは10年タームで主役が変化しています。1980年代後半から1990年代前半は渋カジ(渋谷カジュアル)が流行。1995年頃から2000年頃までは裏原系ファッションが大ブームとなりました。2000年代から2010年代にかけては原宿系Kawaiiファッションが世の中を席巻します。

そんな中で会社を安定的に継続させていくためには、攻めと守りのバランスが大事だと感じています。経営者がどのような考えでどんな投資を行うか。どのタイミングで引くか。そのジャッジをいつするか。当社はジャッジが早い方だと思います。

原宿文化を身近に感じながら時代の移り変わりをみてきた早川氏。そこで経営することの大変さを学んだという

コロナ禍を経て新たな顔を見せ始めた原宿。さらなる活性化を目指し始動した「ウラハラプロジェクト(URAHARA PROJECT)」

― コロナ禍は社会に大きな影響をもたらしました。原宿の街の風景はどう変わりましたか。

潮が引くように街に人がいなくなり、衝撃を受けましたね。人気だったタピオカ店も次々と閉店し、キャットストリートに空き店舗が出始めて…。

ただ、その間にじわじわ増えてきたのが古着屋です。虎視眈々と原宿への出店を狙っていたショップがチャンスだと捉えたのでしょう。buy and sellがメジャー化され、ラグジュアリー系、裏原系、ビンテージ系などいろいろな業態の古着屋が進出してきています。スニーカーショップもそうですね。また今までにはなかったフィギュア系ショップやサンプルショップなど、時代を象徴するようなビジネスが原宿ではいち早く登場しています。

― そんなコロナ禍の中で原宿神宮前商店会の会長に就任された早川さんが、街の活性化のために手掛けたのが「ウラハラプロジェクト(URAHARA PROJECT)」です。その狙いや原宿神宮前商店会会長としての思いについてお聞かせください。

商店会活動ではエリアを限定した取り組み以上のことをやるのはなかなか難しいものがあります。そこで音楽プロデューサー、ラジオDJ、写真家など約50人のクリエイターが参加するプロジェクトを2021年9月に始動させました。原宿は世界の人々が憧れる場所。その期待に応えられる街づくりを行い、原宿カルチャーを世界に再認識してもらいたいと考えたからです。

昨年秋には、Z世代向け・裏原初のレッドカーペットイベントとして「ウラハラフェス(Urahara Fes)オータム2022」を開催し、ファッションショーや撮影会を行いました。今年4月の「ウラハラフェス(Urahara Fes)スプリング2023」は、アースデイトーキョー2023への参画という形でグリーンカーペットイベントを実施しました。

私が小6の時に抱いた原宿への憧れは、中高時代を福岡で過ごすことでより大きくなりました。ずっと地元で暮らしてきた方々よりも原宿への思いは強いように感じます。そして30年近く裏原宿のファッションに関わってきた人間として、裏原宿をアートステージとした新たなカルチャーを発信していきたい。多彩なジャンルのクリエーター、20~30年前から原宿を知る世代、若手世代などいろいろな人々が参画することで起こる化学反応に期待しているのです。

商店会としては、各種イベントへの協賛として、FLAGの積極活用を進めていきたいです。たとえばスニーカー通りでスポーツ系ブランドと協業すれば、人も集まるし宣伝効果も高い。また地域との結びつきを大切にしており、毎年9月に行われる穏田神社例大祭では、地元町会からお借りした神輿を裏原で働く若者たちが担いで夜の町内を練り歩きます。そういうことができるのもありがたいことだと感じています。

ウラハラプロジェクト(URAHARA PROJECT)には、原宿の文化と共に育ってきた原宿を愛するメンバーが数多く賛同者として名前を連ねている

歴史という切り口から街歩きを楽しみ、原宿の新たな魅力を発見してほしい

― 今後、新たな取り組みとしてどのようなことに挑戦していきたいですか。

原宿の街の特徴は直線道路がなく、道が曲がっているところ。一説には、徳川家康が伊賀忍者を住まわせた「隠れの里」だったからだとも言われています。それが碁盤の目の街にはない魅力となっています。先ほどご紹介した「ウラハラフェス(Urahara Fes)スプリング2023」では、グリーンカーペットに『隠田の水車』をテーマにしたパネルを立てました。「江戸時代はこうだったんだ」「今はこんなふうに変化しているんだね」…。そんな視点からも原宿の街を楽しみ、新たな魅力を発見してもらえたらと考えています。

どんな街づくりを行っていくかは、街の人々が声を出してやっていくもの。海外資本も参入してきていますが、それを否定するのではなく肯定的に受け入れつつ、日本の原宿のあるべき姿とは何かを、常に主役が変わっていく中で見据えながら考えていくべきだし、私自身そうしたスタンスで関わっていきたいですね。

― とてもエネルギッシュですね。早川さんのバイタリティの原動力や大切にしている仕事の哲学を教えていただけますか。

「敏感」「直感」「行動力」。この3つです。敏感であり、直感があって、行動していくタイプなんです。原宿はそれが認められる土地柄なので、いちばん自分に適した場所だと思っているし、だからこそバイタリティが溢れてくるのだとも思います。

他の地域の方から「原宿はどんなエリアなのですか」と聞かれた時、熱く語れないと相手はがっかりしてしまいます。また攻めるだけでなくどう守っていくか。敏感に動いていればいいということではなく、動きつつも継続していくことが大事だと思っています。バランスが難しいですが。新しい施設やお店ができたり、何かイベントがあったりすると、面倒がらずに直接足を運ぶことで、新しい出会いが生まれ、新しい何かが波及していくという経験を何度もしています。やはり「敏感」「直感」「行動力」の全てが大事だと思いますね。

文:カソウスキ
撮影:Takuma Funaba

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