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世界への扉を開いたのは、厚さ1ミリの桐製ロックグラスだった。創業100年の桐家具店が生き残りをかけて見つけた活路とは

世界への扉を開いたのは、厚さ1ミリの桐製ロックグラスだった。創業100年の桐家具店が生き残りをかけて見つけた活路とは

日本の伝統工芸は、長年受け継がれてきた技術と文化の結晶である。しかし、近年は需要の低迷や担い手不足により、その多くが衰退の危機に瀕している。そんななか、桐箪笥職人の家に生まれ、「家具のあづま」の代表取締役を務める東福太郎さんは、桐の特性を生かした雑貨ブランド「ME MAMORU(みまもる)」を立ち上げ、国内外で注目を集めている。彼はどのように活路を見出したのか。ブランド立ち上げの経緯、世界展開への挑戦、そして伝統工芸の未来への展望までを聞いた。

東福太郎(あずま ふくたろう)さん/有限会社 家具のあづま 代表取締役
1981年生まれ、和歌山県出身。京都伝統工芸専門学校にて京の名工、内藤邦夫/内藤政一に師事し京指物を学ぶ。卒業後、家業を継ぎ桐箪笥職人となる。桐箪笥職人として活躍する一方で、桐の特性を生かした雑貨ブランド「ME MAMORU」を立ち上げ、海外展開にも積極的に取り組む。

「伝統が途絶えることは損失」と気づき、職人へ

― 桐箪笥職人のご家庭に生まれ育った東さんですが、家業を継ぐ決意をされたきっかけを教えてください。

大学時代に、学食を経営していたシェフの人生経験を聞いたことがきっかけです。そのシェフの実家は、実はカメラ屋さんでした。お父様が亡くなられた後に、カメラマンとしての父の偉大さを初めて実感し、家業を継がなかったことが心の中で引っかかったそうです。

その話を聞いたときに、私自身も100年続く家業の歴史に重みを感じました。家業の歴史は、いわば人の人生の積み重ね。私が継がないと決めた時点で、その歴史が途切れてしまう。それは、大きな損失だと気づいたんです。そこで、家業を継ぐ決意をしました。

― その後、どのように桐たんすづくりを学ばれたのでしょうか。

大学卒業後、京都の伝統工芸専門学校に進学することを決めました。父からは「生半可な気持ちでこの仕事はできない」と釘を刺されていましたので、平日は専門学校で授業を受け、土日は父の仕事仲間であり、私の師匠である方の工房で修業する日々です。朝から晩まで修業に明け暮れたので、人より何倍も早く技術を習得できました。おかげで家業に戻った頃には、ひと通りの桐たんすをつくれるようになっていましたね。

― 厳格な環境のなかで学ばれた東さんからみても、やはりお父様の技術はトップクラスでしたか。

そうですね。腕も一流ですが、なにより父は職人のみに偏っていなかったです。木を切ることからモノをつくることまで、すべてを行うプロデューサー的な立場を担っていました。だから私もそれを目指し、そして超えようとさまざまな技術を身につけました。気づけば、漆塗りや螺鈿(らでん)をはる技術も習得していましたね。
でも、今思えばすべて父の手のひらの上にいたと感じます。伝統工芸の世界は、自分でモノをつくれる腕がないと相手にされない厳しい世界です。私が家業を継ぐと決めたときから、息子が業界で生き残れるように、道筋を作ってくれたのだと思います。

ブランド誕生のきっかけは、家具屋でのある光景

― 桐箪笥業界の現状や東さん自身が感じている時代の変化を教えてください。

残念ながら、業界は衰退の一途を辿っています。私の家業がある和歌山では、昔は紀の川沿いに桐下駄屋や桐たんす屋がたくさんありましたが、今はほとんど残っていません。

私自身の経験でいうと、小さい頃は工場に何十人もの職人がいて、いつも活気に満ち溢れていました。父も母も婚礼家具の注文に追われ、土日は桐たんすをトラックに積み込んで家族総出で配達していました。「荷送り」といって、紅白のリボンをつけた桐たんすを新婚夫婦に届けるのがステータスだった時代なので、飛ぶように売れていたんです。しかし時代は変わり、次第に低迷していきました。

― 厳しい状況のなか、ブランド「ME MAMORU」はどのように誕生したのでしょうか。

2015年、私は活路を見出すため東京に行きました。あるとき、高級家具店で100万円以上する木製のベッドが1日に4台も売れているのを目にしたんです。同じ日、別の場所では伝統工芸品が19万8000円で販売されていましたがまったく売れていませんでした。この差はいったい何なのかと衝撃を受けましたね。

その高級家具店の店員さんに売れ筋の商品を聞いたら、カッティングボードだと教えてくれました。そこで、ひらめいたんです。ベッドを買った若いカップルは、もともとそのブランドの雑貨が好きで愛用していたんだと。だから一生モノの家具を買う時も、背伸びをしてそのブランドの商品を購入するのだと思ったんです。エルメスのケリーやバーキンを買うような感覚ですね。桐たんすから売るのではなく、まずは桐の雑貨を作り、桐という素材の良さを知ってもらうことから始めようと考えたのです。これが「ME MAMORU」誕生のきっかけです。

「ME MAMORU」は、桐が「母なる木」「木の女王」と呼ばれ、昔から大切なものを見守る存在として大切にされてきたことにちなんで名付けました。桐の調湿性や断熱性、そして衝撃吸収性といった特性は、まさに大切なものを“見守る力”を持っているのです。

ME MAMORUは、安全性と想いを大切に家族や友人に寄り添うアイテムを展開している

クラファンは7時間で目標達成、国外への展開に拍車

― 「ME MAMORU」のブランド認知拡大はどのように行われたのでしょうか。

ブランドを立ち上げて1年後、2016年にクラウドファンディングに挑戦しました。当時、桐の板を厚さ1ミリまで削り出して作ったロックグラスを制作しました。誰も真似できないものを作り、話題を集めてメディアに取り上げてもらおうという戦略です。結果は大成功で、7時間で目標金額を達成し、最終的には330%を超える支援を集めることができました。このクラウドファンディングがきっかけとなり、朝日新聞社を通じて「LEXUS NEW TAKUMI PROJECT(レクサス ニュー タクミ プロジェクト)」の和歌山県代表に推薦していただきました。

― プロジェクトでは、見事に「小山薫堂賞」を受賞されていますね。選ばれた匠たちの中から受賞できた理由は何だと思いますか。

実は当時、父が血液の癌で闘病中で危篤状態でした。でも、このプレゼン大会は日本一になれる可能性があり、父を含めて長い間自分たちが受け継いできた仕事を世にみせるチャンスです。父の死に目にはあえないかもしれませんが、東京へ行く決意をしました。そういう鬼気迫った状況下でもあったので、強烈な想いをもってプレゼンに臨めたのだと思います。無事、父にも受賞の報告をすることができました。

― その後、世界への展開はどのように進んだのでしょうか。

「LEXUS NEW TAKUMI PROJECT」での受賞がきっかけで、「ME MAMORU」の作品がレクサスの全国110店舗のコレクションカタログに掲載されることになりました。また、フランスで開催される世界最大級のインテリアとデザインの見本市「メゾン・エ・オブジェ」への出展の話もいただきました。まさか世界的な展示会に出展することになるとは思っていませんでしたが、このチャンスを逃すわけにはいきません。私の世界への挑戦が始まりました。

― さらに「ミラノサローネ」にも出展されたそうですね。

はい、そこでご縁があった会社がフィリップモリス社です。ちょうどLEXUSの展示ブースの裏側で「IQOS」の展示を行っていて、担当者と出会い、意気投合しました。そのつながりから、フィリップモリス社の世界初の「Maker’s Gallery」のオブジェを制作することになったんです。「LEXUS NEW TAKUMI PROJECT」で受賞した「桐のビア杯 鳳凰」も、IQOSバージョンとして制作し、今ではさまざまなブランドで販売されるようになりました。

桐のビア杯「鳳凰」一本の桐の無垢材を匠の手で約1mm に削りあげた桐のビア杯。口当たりが非常によく軽量なのが特徴

“技術の解説書”で、伝統を体系的に残したい

― 常にチャレンジを続けている東さんですが、人生を通して達成したい目標は何でしょうか。

伝統工芸の技術を後世に残すために、書籍を書きたいと思っています。伝統工芸の技術は口伝で伝えられることが多く、文献として残っていないため、技術が途絶えてしまう確率が非常に高いんです。例えば、能面づくりは江戸時代後期から明治にかけて一度技術が途絶え、100年以上の長い年月をかけて復興した歴史があると言われています。技術の伝承が途絶えると、それだけ多くの時間と労力が失われてしまうのです。

私たちの桐たんすの技術も同じです。残っている技法はありますが、口伝で伝えているため文献がほとんどありません。色ひとつ取っても調合は一子相伝が多いです。だからこそ、技術を伝える書籍をつくっていきたいですね。

― 技術を守っていくためには必要なことですね。

簡単ではありませんが、不可能ではないと思っています。具体的には、技術の解説書のようなものをイメージしています。例えばカンナの使い方の場合、角度や力加減といった数値化できる要素を理論的に解説することで、より多くの人が伝統工芸の技術を習得できるようになるでしょう。ギターの奏法がタブ譜や動画で分かりやすく解説されているように、伝統工芸の技術も、より体系的に学ぶことができるようにしたい。そうすれば、若い世代がもっと気軽に伝統工芸の世界に触れることができるはずです。

理想をいうと、私が人生をかけて培ってきた技術を、100年後の未来の世代では3年くらいで習得してもらいたいですね。後世の人たちには、さらに素晴らしい作品を生み出してくれることを期待しています。そして、日本の伝統工芸の素晴らしさに再びスポットがあたり、世界で活躍する人がどんどん増えてほしいと願っています。

文:金井 みほ
撮影:船場拓真

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