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スニーカーは世界共通言語、圧倒的熱量で世界に影響を与え続ける男のオンリーワンの創造力|アトモス ディレクター 小島奉文氏インタビュー

スニーカーは世界共通言語、圧倒的熱量で世界に影響を与え続ける男のオンリーワンの創造力|アトモス ディレクター 小島奉文氏インタビュー

ビジネス界のトップランナーのキャリアを「丸ハダカ」にする、新感覚対談「Career Naked」。第4回目は、世界的人気を誇るスニーカーショップ「アトモス(atmos)」のディレクターで、これまでコラボレーションなどで数々の大ヒットスニーカーを生み出した小島奉文氏に、数々の世界的ブランドのマーケティングを経験してきたH-7 HOUSE(エイチセブンハウス)の代表である堀弘人氏が話を聞く。大ヒット商品を生み出すためには、何が必要なのか。またアトモスがスニーカーカルチャーの中心で居続けている理由などについて、たっぷり語っていただいた。

小島 奉文さん
フットロッカー アトモスジャパン合同会社 メンズ シニアディレクター

埼玉県出身。1981年生まれ。文化服装学院を卒業後、2001年にアトモス(atmos)の前身であるチャプター(CHAPTER)でキャリアをスタートさせる。その後、アトモス(atmos)で数々の別注企画を手掛けるディレクションなど、さまざまなポジションを歴任した後、現職に。

堀 弘人さん
H-7 HOUSE(エイチセブンハウス) CEO ・ブランドコンサルタント

米系広告代理店でキャリアをスタートさせ、アディダス、リーバイス、ナイキ、LVMHなど世界的に業界をリードする数々の外資系ブランドでマーケターとして要職で活躍したのちに、大手日系企業 楽天の国際部門にて戦略プロジェクトをプロジェクトリーダーとして率いてきた。2021年、自身の経験を日本企業の活性に役立てたいとブランドコンサルティング会社H-7HOUSEを設立。メディアNESTBOWLのブランドディレクターも務めている。

スニーカーに狂わされた人生の選択肢

―今やスニーカー界の世界的権威でありインフルエンサーでもある小島さんですが、現在はどのような仕事をされていますか?

基本はバイイング(商品選定と仕入れ)がメインです。主要スニーカーブランドはほぼ担当していて、日々、展示会に足を運んだり、商談を行ったりする比重が大きいです。あとはオンラインや店舗業務も合わせて全体を見ていますので、他の業務の範囲は多岐にわたりますね。数年前まではスニーカーの企画デザインをメインで行っていたのですが、今は会社が急に大きくなったので、バランスよく回るように全体を見る立場に変わっていって。私も40歳になったので、30代、20代といった次世代の育成に力を入れるようになりました。
弊社はあまり年功序列など関係なかったので、私も若い時にいろいろ経験させていただきました。もちろん失敗もありましたけれど、その分、成功も多々ありました。今は企画ものも、若手にどんどんやってもらっています。

―なぜこの会社で働くことを選んだのでしょうか?

本当はゲームのプログラマーになろうと考えていたんですよ。でもちょうど15、16歳の時にナイキのエアマックス95が出てきて、これがすごく恰好よかったんです。そこから原宿に行って、自身の進む道が変わってしまったんですね。当時NIGO®さんやUNDERCOVERといったブランドにあこがれて、そのデザイナーの方々が学んだ専門学校に入って、そのまま就職して20年以上経ってしまったんです。

―最初はあこがれから始まって、スニーカーカルチャーのど真ん中に身を投じたんですね。

“エアマックス95からスニーカーに興味を持ってこの仕事を選んだ”みたいな感じだったから、人生が狂ってしまったな、と。でも仕事はすごく面白かったんですよね。単純にスニーカーが好きだから、ここまで続いたんだと思います。

ナイキ・エアマックス95に出会い、この仕事を選んだと語る小島氏

―この20年、会社を辞めたいと思ったことはなかったですか?

2回くらいありますよ。1回目は25,26歳のころ。当時ニューヨークに行ったらイケてるという雰囲気があったので、単純にミーハーな気持ちでアメリカへ1回行こうと思ったんです。結局、ビビって行かなかったんですけれど(笑)。行ったらまた違った人生があったのかもしれないのですが、今、こういう結果になっているので、これはこれで良かったのかなと思ってます。

2回目は当時付き合っていた彼女から“30歳までに結果が出なかったら、彼女の実家の家業を継ぐ”という話が出たんです。でもどうしてもあきらめられなくて。この仕事を辞めて、違うことをやるのが想像つかなかったんですよね。それでスニーカーの方を取りました。だから仕事が嫌で辞めたい、といったことはなかったですね。

―20年間のキャリアの中で、スニーカーに勝る魅力はなかったんですね。ちなみに様々なメディアでの露出も増え、ますます存在感を増していますけれど、他社からの引き抜きなどはありませんか?

それはちょこちょこありましたよ。ただ、弊社の社長(アトモスを一代で築き上げた本明秀文氏)が天才というか、奇才というか。彼の魅力もこの会社で働く理由の一つだったのかもしれないです。だから他に行こうとは思わなかったですね。あと、まだやれることがたくさんあって、終わらないんですよ。それが一番大きい理由かもしれないです。

例えば私が入社した20年前はアトモス(atmos)が1店舗、チャプター(CHAPTER)が2店舗でした。2013年に新宿の高島屋前に大規模なコンセプトストアを出店(Sports Lab by atmos)をして、それが一つの大きな転機でした。それまで弊社の店舗は原宿・渋谷しかなかったのですが、初めて百貨店というファッションのメインストリームの近くに店を構えることができて、全国の駅ビル、百貨店などから出店オファーが増えました。そこから怒涛のごとく30店舗くらい展開して、2013年から2021年の約8年間で売り上げが一気にだいたい170億円ぐらい伸びたんです。こういった積極的な動きがなかったから、今、コロナですごく厳しかったでしょうし、売上も停滞していたかもしれません。

本当にこの8年、ノンストップでやってきました。日本全国、札幌から沖縄まで行って、それでも終わらず、今は東南アジアに出店していて。正直、売上でいえば安定しているんですけれど、それで止まる気は一切ありません。スニーカーは世界共通言語なので、同じような話ができる人たちが世界中にいて。それがすごく魅力的で、面白いんですよね。

―ここだけで話せる、キャリア史に残る最大の失敗談を教えていただけますか?

ものすごい数を発注して、まったく売れなかった、といったことは結構ありますよ。でも社長が寛大なおかげと、皆で売り切るという強い結束力で、なんとかなってきました。逆に成功も多かったんですよね。結構、周りの人たちから「なぜ伸びているの?」と聞かれますが、現在の弊社の店舗数と従業員数では、他の企業では到底達成することのできない売上なんですよね。それは内容面で非常に効率が良くて、精度が高いからなんですけれど。

たとえばスニーカーを生業としている人だったら、売れる商品は事前に分かります。でも“何足発注できるのか?”というところが大きくて。データ重視の会社では、きっとビビッてそこまでたくさん発注できない。でも私たちは流れを見て、今、このタイミングだったら行けるだろう、と考えて、ものすごい数量を発注します。なぜそんな勘が働くかと言うと、これは説明が難しくて、経験から生み出されたもはやシックスセンスですね。

―今これだけECなどでデータが蓄積されて売上予測ができやすくなった中でも、あえて本能型、直感型でビジネスの判断を行っているのですね。

データで見たら、売れる天井が決まっています。前回1,000足売ったら、正攻法のデータ重視で行くと昨年対比の10%アップの1100足の発注となります。しかし私たちは逆に、感覚値でもっといける、と。そうしないと大手量販店のようにたくさんの店舗があるわけではないので。1日何億円売れる日数をどれだけ作れるか。そういうのは、他のスニーカーショップや洋服店ではクレイジーすぎてできなくて、真似できない独自性のあるスタイルなんだと思います。

次のステージはウィメンズでの成功とアジア進出へ

―小島さんの将来についてお伺いします。日々成長を続けてやることがたくさんあって、飽きることがないというお話だったのですが、今後キャリアの中で何を実現されたいですか?

まず日本ではウィメンズ業態に力を入れたいです。男性はずっと前からスニーカーが定着、定番化しているんですけれど、女性は夏にサンダル、冬はブーツと、選択肢がたくさんあるので。もう少し女子の間でもスニーカー文化を定着させたい、それができたら、新たな弊社の価値になるのではないか、と思っています。

あとは今はアジア進出が一番面白いですね。いろいろなところに行かせていただいているんですけれど、アメリカやヨーロッパはもうマーケットが完成しているので、そんなにテンションが上がるわけではなくて。どちらかというと、東南アジア、タイやインドネシアなどの方が、未開の地で本当に面白いなと。インドネシアは世界で4番目に人口が多い国ですから。ジャカルタのスニーカーイベントに呼ばれた時は、3日間で約6万人の来場者がいました。目の当たりにすると、圧倒的エネルギーを感じて面白いですね。

―過去から現在に至るまで、いかにしてatmosが日本のスニーカーカルチャーの中心でいられていられたのか、その理由をお伺いしたいです。

2000年当時、スニーカー店はたくさんあったんですよね。でも最終的に生き残っているのは数社で。なぜ生き残ることができたかというと、一つはビジネスサイドと、カルチャーサイドのバランスが良かったと思うんです。私自身も基本はマニアックな商品とか、アンダーグラウンドなものが好きな人種で、それを理由に原宿に来たんですけれど、そういった自分が好きなものと、売れるものは、まったく違ったりもします。

―小島さんのマニアックな目線と消費者の目線のギャップは、どのように埋めているのでしょうか?

いろいろな人と話したり触れたり、というコミュニケーションからでしょうか。それは嗅覚、センスなのかもしれないですね。弊社の社長は数字的なセンスがすごく鋭くて、違う右脳的な部分で私はバランスを取っていたような気がします。

―スニーカーカルチャーの中心であるために、atmosさんは今後、何をされたいと思っていますか?

今の問題は新型コロナウィルスの影響でお客さまのリアル店舗での購入体験やイベントなどでの人との接し合い、コミュニケーションの場がほとんどないことです。スニーカーコミュニティをどうやって復活させるのか。イベント関連はここ2年くらい開催できていないので、弊社がハブになれるようなコミュニティ作りの案件は、デジタルとフィジカルを組み合わせてもっと必要なのではないかと思っています。

―また、2021年8月には世界最大のスニーカー・スポーツウエア小売店、米フットロッカー社(FOOT LOCKER)がatmosを買収すると発表され世間を賑わせました。この話を聞いた際、どのような心境でしたか?

社内の色々な資源、例えば人材などが足りていないところも正直あったので、次のステージに行くステップとしては、私はそんなにネガティブではなかったです。世界中に拠点があるので、世界を相手に戦うこともできますから。社長含めてオリジナルメンバーは会社の売却が済んでも、まったく休む気はありません。今まで通り、むしろもっとペースを上げていきたいですね。人生は短いと思っているので。

atmosは世界に向けて新たな挑戦をし続ける

自分の武器を毎日毎日磨き続けることが未来につながる

―ヒットメーカーとしての仕事術を伺いたいのですが。小島さんはいわゆるコラボやクリエイティブなスニーカーなど、世界的に大ヒットとなるシリーズを生み出した名プロデューサーとしての側面もあります。いつもどんなことを考えながら仕掛けていますか?

基本、私は情報量が一番多く、インプットが多いと思います。社内でスニーカーのことは“何でも知っている人”と思われていて、様々なことを一番聞かれる人間でもあります。「〇〇の人」と認識されるのはすごく大事だと思うんです。先ほどお話した高島屋の新宿店はナイキ社との協業だったのですが、私はナイキ好きと認識されていたので、「ナイキをやるならこの人」と選ばれて。自分は何者なのか、を印象づけることは、いち早く意識していましたね。

―ヒットさせるためには、何が必要でしょうか?

私はスニーカーの情報量が社内で一番多いだけでなく、世界中のものやトレンドを見ています。今日は新作の何が出るのかはすべて把握し、それが売れた・売れなかったという結果も、ある程度、把握しています。あとは自分がコレクターというか、今でもスニーカーが好きなので、「ここがこうだったらいいのに」という思いがたくさんあるのも大きいと思います。また周りにスニーカーをおそろしいほど買う友だちがたくさんいて、彼らと日々接しているので、トレンドや流れの察知は一番早いのかもしれないです。

―数億円の売上を作るスニーカー企画を考えなくてはいけない、というプレッシャーはありますか?

予算がありますから、山をはれるものを企画します。でもアイデアというものは、ずっと考えているからできるものでもなく、ポッと出てきたりするんです。説明するのは難しいのですが、タイミングもありますね。

あとは人との出会いでしょう。例えばスニーカー業界では有名なSEAN WOTHERSPOON(ショーン・ウェザースプーン)は、海外のスニーカーイベントでたまたま出会い、バイブスが合ったのか友だちになって。「やろうよ!」といった感じで、インスタグラムのDMだけでやり取りをして、コラボレーションのスニーカーの発売にまでこぎつけたんです。もしイベントで話しかけなかったら、起こりえなかったことで。そういったことが毎年、ちょこちょこあるんですよ。それが世界中で大ヒットして即日完売といった、ふとしたことがきっかけで何が起こるかわからないと言った面白さもあります。

スニーカーはパイ(市場の大きさ)が決まっているので、最近はトイやアートなど、同じように収集癖があるものと一緒に企画していくと、結構チャンスがあるのかな、と思います。だから日々新しいことにチャレンジすることは意識していますね。

―小島さんのように、世界を舞台に活躍していきたいと考えている方に対して、どんなことを続けるべきだとお考えですか?

それは、たぶん何かのオタクであることじゃないかと思います。私はスニーカー以外に取り柄がないんですけれど、それを武器としています。必ずしもうまくいくという保証はないですが、自分の武器を磨く方が、活躍の可能性は高まると思いますね。逆にこれからは「フラットにいろいろなことができます」という方がつらい時代になるんじゃないかと思うし。オタクで自分の武器を持って、それを磨き続けることが未来につながるのかな、と思っています。

思い出のスニーカー3選「人生を狂わされた一足」「人生を変えた一足」「原点を再発見した一足」

―最後に本日は「人生史に残る思い出のスニーカー」を3つお持ちいただいているので、それぞれご紹介いただけますか?

まずは「ナイキ エアマックス95」。これはスニーカーにはまるきっかけになった一足であり、これに出会ってなかったら、この仕事をしていなかったという、「人生を狂わされた一足」です。『Boon』という雑誌があったんですけど、それに熱狂的にあおられていて。私は原宿に行った時に、竹下通りにこれが29万8千円で販売されていたんです。そこからずっと買えないまま来てしまって。ずっと追いかけていたものですね。最近は復刻されているので、購入することはできますが。

人生を狂わされた一足「ナイキ エアマックス95」

―2足目は、本当に貴重なものを持ってきていただきました。プロテニス選手のロジャー・フェデラーさんのサイン入り「ナイキ エアマックス1 アトモス エレファント」ですね。

これは私が企画したスニーカーです。世界でエアマックスの人気を投票する選挙が行われて数あるモデルの中で1位を獲得しました。それを2016年、エアマックス1が30周年の時に復刻したもので、世界中のナイキファンとともに選挙をして、投票で1位を取って、それをフェデラーさんがプライベートで履いてくれていたんです。その後、これをベースにしたテニスシューズを作ったんですよ。フェデラーさんがそれを履いて試合に出て、上海マスターズで優勝したんです。そのスニーカー発売を記念してSports Lab by atmos新宿にいらしていただいた時に、サインをもらったんです。普通に履いてしまっているんですけれど、家宝的なものですね。

人生を変えた一足「ナイキ エアマックス1 アトモス エレファント」

実はこのモデルは2007年に最初に販売された際は売れなかったんですけれど、10年したら売れてしまったという。何が起こるか分かりませんね。でもこれを販売したおかげで数多くの企画オファーをいただき、世界中を一緒に周りました。これは「人生を変えた一足」です。ここからatmos自体もまたワーッと盛り上がったので、1つターニングポイントになったのではないかなと思います。

―3足目はちょっと風変わりなアディダスですね。

「アディダス オリジナルス フォーラム ロー アトモスSH“リクチュール”」です。これはまだ2021年12月に発売されたばかりのスニーカーですね。今は若手にどんどん仕事を振っているんですけれど、これは自分が関わっていて。最近の仕事の中で、もっとも時間と労力と手間と情熱をかけた商品です。

原点を再発見した一足「アディダス オリジナルス フォーラム ロー アトモスSH“リクチュール”」

スニーカーの修理と再生を行っているカスタムショップ「リクチュール」と知り合い、プロトタイプは廃材を使ってハンドメイドで作ってもらったんですよ。それでアディダスに持っていって、「面白いからやろう」という話をしたのですが、「量産できない」と言われて、1回とん挫しそうになったんですけれど、熱心に話をして納得してもらって。一番ミーティングに時間をかけて、サンプルも4回作りました。最近はどうしても忙しいので、そんなに商品に深く向き合えてなかったのですが、もう1回ものづくりの初心を思い出しました。
これはサスティナビリティ観点からアディダスの工場の廃材で作ってもらおうとしたのですが、それは個体差が出るので、最終的には実現できなくて。ただ、プロトタイプはそういった形で作りました。弊社は本来こういう商品は手掛けてこなかったのですけれど、いい意味でアトモスらしくないものが、1から作ることができました。テーマは再構築で考えていたので、「原点を再発見した一足」だと思います。

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東京のスニーカーカルチャーを世界に向けて発信し続けるショップ「atmos」