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スニーカーブームの変遷とその裏側を知りつくす高見薫さんのキャリアと見つめる日本のスニーカー近代史

スニーカーブームの変遷とその裏側を知りつくす高見薫さんのキャリアと見つめる日本のスニーカー近代史

1995年に“エアマックス95” が発売され、第一次ハイテクスニーカーブームが到来して以来、昨今まで続くスニーカーブーム。ストリートシーンとのつながりが、爆発的なスニーカー人気を牽引した。スニーカーブームの裏側を常に関係者として目撃してきた高見薫さんは、どのようにしてストリートシーンとのコネクションを広めていったのか。そして、スニーカー界を盛り上げた本人は、近頃のブームをどのように見つめているのだろうか。現在は、デッカーズジャパン合同会社「UGG®」に勤務する高見さん。600足もの圧巻なコレクションとともに、スニーカーブームの変遷を追う。

高見 薫さん/デッカーズジャパン合同会社
新潟県生まれ・千葉県育ち。1991年、新卒でナイキに入社し、アパレルの営業担当としてキャリアをスタート。ナイキショップの立ち上げをはじめ、ファッションブランドやショップとのコラボレーションなど、さまざまなプロジェクトに携わる。2018年よりデッカーズジャパン合同会社に勤務。

水面化ではじまったナイキのプロモーション

ー 新卒でナイキジャパンに入社した高見さん。キャリアストーリーを教えてください。

入社してから約10年間は、アパレルの営業をしていました。その流れで2000年に「ソフ(SOPH.)」が手がける「F.C.R.B.」というブランドとのコラボレーションを担当。その後、外商へ売りに行ったり、警視庁の機動隊にジャージをつくったり、幅広い業務を行う「何でも屋」のような部署へ異動しました。

そこで原宿というストリートカルチャーの発信地に関わりはじめ、残りの15年は営業をやりながら、クリエイターやショップなど、いわゆる量販型のスポーツショップとは直接的には関係ないようなコネクションを広げていった、というのが主な仕事でした。

ー 96年に第一次スニーカーブームを巻き起こした当事者であるナイキの方々は、当時それをどのように見ていましたか?

1996年にナイキの一大ブームが巻き起こり、エアマックスを履いている人から強奪する「エアマックス狩り」がニュースになったほどでした。しかし、そのブームはすぐに下火となり、ナイキでは人員整理や過剰在庫の処理業務などに追われます。そこで流行に乗っかるのではなく、「アスリートのために」と今一度スポーツに注力していく流れに。「スポーツ&フィットネスカンパニー」というコンセプトから、当時は「スポーツカンパニー」という言い方に変わりました。

当時は雑誌媒体の影響力が強く、雑誌で取り上げられるからプレ値に吊り上がってしまう。雑誌で紹介されたもののみが完売し、本来売るべきものが売れなくなってしまうため、カジュアル媒体のプレスに対しては「サンプルの貸し出しを一切お断りします」というファックスを一斉に流している異常事態でした。

ー スポーツに注力する動きがとられたとのことですが、どのようにしてまたストリートシーンにつながっていくのでしょうか?

スニーカーブームによって日常的にスニーカーを履く人が増えたのも事実。スニーカーを盛り上げようとする動きが始まりました。

アメリカ本国では、「ハリウッドプロモーション」というプロジェクトが立ち上がります。ハリウッドと言えば映画。多くの人に印象付け、長く残すために『フォレスト・ガンプ』や『バック・トゥ・ザ・フューチャー』といった作品にナイキのスニーカーを登場させました。

そういったプロモーションを東京でも展開しようとしたのですが、日本の映画に登場させてもしっくりこない。「日本に合ったプロモーションをするにはどうしたらいいんだ」と、とある社員が街をまわりながら、カフェの店員に「この靴どう思う?」と聞いたり、クラブで「今は誰がはやってるの?」と尋ね歩いたりしているうちに、その社員のもとに情報が集まるようになりました。そうしてストリートのカリスマでもある藤原ヒロシさんと出会い、プロジェクトをご一緒することに。地域限定の商品として発売したり、ハリウッドとは違う手法で売り出していくようになります。その社員のもとに集まった情報や人脈を、私たち営業の部署につなげていくような仕組み作りを行いました。

『フォレスト・ガンプ』の劇中でガンプが着用したことでも知られるナイキのコルテッツ。

ストリートシーンとの関わり

ー そうしてストリートシーンとのコネクションが生まれるんですね。2000年代はどのような動きがありましたか?

2000年代に入ってからは街にいる若者たち、今で言うインフルエンサーのような立場の人たちが「靴のカスタマイズをしたい」「自身のお店で扱わせてくれないか」とナイキに協力してくれています。そうやって登場した一例がニトロ(=NITRO MICROPHONE UNDERGROUND)です。

当時私の部署で担当していた原宿界隈のアパレルショップでスニーカーを扱っている店舗はなく、並行輸入のスニーカーを販売する「CHAPTER(チャプター)」が一大勢力でした。それから影響力のある雑誌に載っているような、「HECTIC(ヘクティク)」や「HEAD PORTER(ヘッド・ポーター)」、「SWAGGER(スワッガー)」、「bal(バル)」などのアパレルショップとのお付き合いがはじまります。また、店頭に立つ「カリスマ店員」と呼ばれる人たちが履いていると、お客様たちも憧れるという現象が起きていました。

ー 当時はどのようなスニーカーが発売されていたのでしょうか?

2000年代は、会社ではランニングなどスポーツシューズの開発にお金をかけていました。なので、私たちが扱っていたようなファッションとして楽しむスニーカーは、復刻版しか売ることができなかったんです。たとえば、コルテッツやダンクなどを売ったり、といった過去に発売された商品の金型を利用しての素材や色替えしか許されていませんでした。これは、アメリカ本国の方向性でもありましたが、日本のエンターテイメントマーケティングが本国とは違う形で進んでいたこともあり、営業をしながら日本のプロモーションに関わるキーパーソンたちと手探りで模索していました。

ひとつひとつのアカウント(取扱店)は小さく、若者が運営する会社がほとんどなので、ナイキとしては売上も少ない。ただ、やっぱりブランドとして「かっこいい」と思われることをやっていく方針でした。

ー 2010年代に入ると、どのように展開していくのでしょうか?

2010年代になると、2000年にナイキの正規販売店としてオープンした「atmos(アトモス)」を筆頭に、「ABCマート」が展開する「 BILLY’S(ビリーズ)」、「Undefeated(アンディフィーテッド)」、地方で言うと「UPTOWN Deluxe(アップタウン デラックス)」のようなスニーカーショップの存在も目立ち始め、老舗であるアメ横との差別化も行われ始めます。「アトモス」の前身は、並行輸入店の「チャプター」。当時、私は「アトモス」とスポーツライフスタイルを展開する「スポーツ ラボ バイ アトモス(Sports Lab by atmos)」に関わっていましたが「アトモス」がナイキの正規取扱店になるためには同社で並行輸入品を取り扱う「チャプター」の閉店を判断しなければならず、本明社長(当時)との白熱した議論は今でも鮮明に思い出されます。

その当時を思い出すと、「チャプター」や「アトモス」で働くスタッフを筆頭に、他の人が履いていないようなスニーカーや、海外で購入した限定カラーを履いたりして自分らしさを楽しむ人がとても多かったです。「自分らしさの表現」がスニーカーカルチャーのはじまり。それが今でも根底にあると思っています。

今は「みんなが良い」と言うものが欲しいという人が圧倒的に多いところはありますが、趣味としてスニーカーに興味がある人は、他の人が履いていないようなモデルにおもしろみを感じる傾向があります。

600足を超えるスニーカーのコレクション

市場での人気だけではなく、スニーカーのルーツを知ってほしい

ー この頃になると、フリマアプリが台頭してきますが、マーケットに何か変化はありましたか?

サービスがはじまった当初は「高く売ってやろう」という売り方ではなく、不用品を売るイメージでした。ただ、そこを商売にしようとする人が増えはじめると、逆にフリマアプリで盛り上がっていないと買いたくない、と言う人が多くなるのも悩ましいところ。他の人と違うものが欲しい人とは真逆の、安心感を買いたい人が増えていると思います。できれば通常の価格で買いたいけど、安心感が得られるなら多少値段が張ってもいいかも…と思っている人が増えた気がします。

ー 今のスニーカーブームや楽しみ方について、どう思われますか?

90年代、2000年代当時は、ナイキの社内で「スニーカー」と呼ぶのを禁止されており、それぞれ「ランニングシューズ」「バスケットボールシューズ」と用途がありました。そう考えると今の若者のなかには、オリンピックで履かれているな競技用ランニングシューズも「スニーカー」だと思っている人もいると思うので、「何用の靴なのか」というのを理解して頂きたいな、と思っています。

たとえば、ジョーダンのアイコンである「ジャンプマン」ロゴが、伝説のバスケ選手、マイケル・ジョーダンのプレー写真から作られたロゴだとわからない人もいる。元々はオリンピックに出るような選手のために開発された靴なのに、それを知らずに単に高値で取引されているからという理由で「手に入れたい」という安直な発想になっている人もいる。まずはその靴の原点が何かを知ってほしいなとは切に思います。

「ジャンプマン」と呼ばれるロゴは、ジョーダン本人を撮影した販促用ポスターがモチーフとなっている。

これまで培った経験を持って新天地へ

ー これまでお話しいただいたような歴代のスニーカーカルチャーという資産を持って新天地である「アグ®」に移られました。ブランドにもたれるイメージを一新するために高見さんにお声がかかったとのことですが、それまでにどのような経緯があったのでしょうか?

「アグ®」が創設40周年のタイミングで、リブランディングを計画していました。シープスキン(羊革)ブーツのイメージが強く、2000年代初頭にパリス・ヒルトンやニコール・リッチーのようなセレブが履きはじめ、日本でもギャルが憧れる対象だった浜崎あゆみさんや梨花さんが履くようになって大ヒットをおさめます。

今でもシープスキンが人気なのですが、結局のところ当時のブームから「アグ®」を履いていた人たちが年齢を重ねてずっと履いている状況でした。「お母さんが履いているブランド」というイメージになりつつあったのを払拭するために、若者に向けたリブランディングを開始。また、それまではブーツのイメージが強く、こたつやダウンと同様で冬にならないと使いません。それではあまりにも時期が短いので、「アグ®」が通年で売れるプロダクトづくりが目的でした。

オーストラリア生まれのブランドだと思われがちな「アグ®」ですが、実はアメリカに移り住んだオーストラリア人によって誕生しました。アメリカではサーフィンのあと、ビーチサンダルを履くのが主流なのですが、羊大国であるオーストラリアやニュージーランドでは、シープスキンに関しても身近な存在だそうです。「海に入ったあとに履くと温かいから、この靴を広めたい」と立ち上げられたのが「アグ®」というブランドです。最初にローカットがつくられたのですが、サーファーの間で人気が高まり、それがやがてハリウッドのセレブリティやファッションエディターに愛用されて世界中に広がった、という背景があります。

それはそれでよかったのですが、開発時のストーリーと売れ方に徐々にずれが生じてきました。メンズへの訴求や通年を通しての販売を考えたときに、従来のイメージを保ちながら変革を起こすために、スニーカーを売り出していこうという流れになりました。社運をかけて売り出そうとしていたときに、若者と話題性のある “賑やかし” が必要だということで自分がアサインされたのが「アグ®」に入社したきっかけです。

CA805 V2 Remix Heritage:着地時から高いクッション性と共に安定性をもたらすよう設計された、軽量で後ろにせり出したアウトソールが特徴の高機能スニーカー。

ー 入社して6年目とのこと。実績はいかがですか?

最初のうちは、うまく軌道に乗りました。当時はスポーツシューズのブランド以外スニーカーを扱っていなかったので、いち早くスタートを切れたのが良かったところです。また、弊社で取り扱っている「HOKA(ホカ)」、「ON(オン)」や「Salomon(サロモン)」のようなパフォーマンスシューズが売れています。「アグ®」は「ファッションとして履くスニーカー」と差別化はできるのですが、そういったブランドが台頭してくる前にはじめられたのもキーポイントでした。

ー 現在のスニーカーマーケットをどのように見ていらっしゃいますか?

世間では「スニーカーブームは終わった」と言われていますが、ようやく終わったのか、と。「アグ®」はハイプ(=市場価値が高いスニーカーの意)とは異なる価値を持つブランドなので心配していませんが、一過性のところで事業をしているようなところだと大変かもしれません。

また、今はネットでの販売・購入が主流になってきていますが、今後はより現場が重宝されるようになるのではないでしょうか。カリスマ店員の時代に戻っていくのでは、と予想しています。なぜなら、詳しい人から話を聞きながら購入した方が付加価値につながるから。たとえば同じ2万円の商品だとしても、店員さんの話を聞きながら買ったものと、スマホのタッチで買ったものとでは思い入れも変わるはず。効率は悪くなるのでグローバルな企業では懸念されるかもしれませんが、原点に帰っていくと私は考えています。

ー スニーカーブームを巻き起こし、カルチャーの土台を築き上げることの秘訣や成功のためのヒントを教えてもらえますか?

まずは、広めたいものが知れ渡った様子を想像し、規模感も予想します。どうやったら盛り上がるのか、少し先の未来のために今やるべきことに落とし込んでいく、という時間軸で進めていく方法がわたしは向いていました。今やらなくてはいけないことを積み重ねて最終的にどうなったのか、というよりは、素敵な未来を思い描いて、逆算していくような考え方です。

最初のビジョンを描いてから今やるべきことに戻ってきたときに、1人では到達できないと思ったら、誰かに頼むこと。わからないことはすぐに聞くのが1番早いと思います。なんでも質問する、というのがわたしの強みでもあります。

文:Nana Suzuki

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デッカーズは、南カリフォルニアを拠点とする日常のカジュアルなライフスタイルと高機能性が求められるアクティビティの両方の用途のために開発された革新的なフットウェア・アパレルの販売・卸売を行うグローバルカンパニーです。
日本では、UGG®、HOKA®、Teva®の3つのブランドを展開しています。