グレース・ウェールズ・ボナーの文化と文化をつなぐハイブリッド思考 NEW

2025年10月、グレース・ウェールズ・ボナーが「エルメス」メンズプレタポルテ部門のクリエイティブ・ディレクターに就任することが発表された。これは、クラフツマンシップを核に据えるメゾンに、異なる文化の接続を得意とするデザイナーが加わることを意味する。
エルメスの象徴は、普遍的な美を追求するスタイルにある。一方、ボナーのスタイルには、複数の価値を同時に成立させるための精密な設計がある。テーラリング、手仕事、ブラックカルチャー、スポーツ、ストリート。本来なら分断されがちな文脈を、彼女は互いの個性が機能し合う形に組み替えてきた。
このアプローチは、現代においていっそう重要性を増している。個人も組織も、多様な背景を持つ人々や価値観と向き合いながら、新しい仕組みやプロダクトを生み出さなければならない。求められているのは、違いをひとつにまとめることではない。異なる個性が互いを活かす関係を作れたときに初めて、創造性が立ち上がる。ボナーの服づくりは、その具体的なモデルになっている。
そこで、ボナーのモデルを解説するため、彼女のブランド「ウェールズ・ボナー」から三つのシーズン、2021年春夏〈Essence〉、2021年秋冬〈Black Sunlight〉、2022年春夏〈Volta Jazz〉を取り上げる。コレクションがどのような要素を結び、どんな構造を生み出しているのかを観察し、「異なるものをどう扱うか」という現代的な課題に対するヒントを探りたい。
モダンさの中に時間を閉じ込める構造 ー2021年春夏〈Essence〉
2021年春夏、ボナーは服そのものに時間を縫い込んだ。このシーズン最大の特徴は、アディダスとのコラボレーションである。注目はロゴマークだ。ジャージの胸元にプリントされたのは、現行のコーポレートロゴ、3本ラインを使用した「スポーツパフォーマンスロゴ」ではなく、1972年生まれの「トレフォイルロゴ」だった。
現在、月桂樹から発想されたロゴは、ストリートやライフスタイル向けのアイテムに使われている。グレース・ボナーというブランドの性質を考えれば、トレフォイルロゴの使用は自然なものだが、このコレクションではさらに深い意味を持った。
モダンなミニマリズムで形を整えながら、ディテールだけは過去へと跳ぶ。その飛距離が、コレクションの柱になっている。ボナーは「時間」を遡り、レトロに全体をまとめた。このデザイン手法を表すものとして、トレフォイルロゴはふさわしい。
トラックスーツは襟幅がワイドで、ジッパーの走り方にも1970年代の空気が残る。身体に沿って落ちるスリムな形は明らかに現代的なのに、素材の発色はどこか退色した写真のようで、新旧のバランスが絶妙にずれる。まるで1970年代のサッカー選手を思わせるレトロ感である。

テーラードも同じ構造で組まれている。あるルックでは、細身に削がれたジャケットに、青の切り替えが斜めに走っていた。基礎になる型紙はミニマルだが、そこに置かれた鮮烈な青は、現代のビジネススーツには見られない色彩感覚だ。別のルックでは、黄×黒のストライプがシャツの上を大胆に走り、まるで現代のフォーマルに、再び70年代の空気が入り込み、当時のポスターグラフィックが侵入したかのようだった。
ドレスは、ボナーの時間の扱いがさらに明確になる。真っ黒のニットワンピースは驚くほどシンプルな形だが、裾にだけクロシェ編みが垂れ下がる。白、黄、こげ茶、黒の帯が地層のように重なり、その一番下では糸がほぐれている。均整の取れた上半身と、手仕事の揺らぎがある下半身。あの歪みは、機械と手仕事、都会と記憶の境界線が揺れ動く瞬間そのものを思わせた。
ここで見えてくるのは一貫した態度である。まず「型」を決める。その型の中で「反響」を起こす。シルエットをスリムに作ることで現代性を立ち上げ、素材と配色に、過去・記憶・レトロといったイメージを呼び込むものを積極的に使用し、現代性から半歩退く。
ボナーは、スレンダーな形の中に時間を閉じ込めた。その結果生まれたのは、モダンでありながらレトロという、感性の捻れを抱えたウェアだった。異なるものが隣り合うとき、わずかな歪みが生まれる。その歪みこそが創造性の入口になる。ボナーの2021年春夏〈Essence〉は、その事実を証明した。
伝統と日常を横断する知性的スタイルー2021年秋冬〈Black Sunlight〉
2021年秋冬〈Black Sunlight〉でボナーが見せたのは、「知性は服装の中に滲む」という姿勢だった。ジャケットを軸にした落ち着いたルック。だが、そこにあるのは正統派のクラシックではない。いつものように、文化の層が横断し、複数の意味がひとつの身体に宿っている。
チェック、ストライプ、アーガイルといった欧州の「伝統柄」を使ったアイテムがあるかと思えば、黄・赤・緑のマルチボーダー、幾何学柄のテキスタイル、民族衣装を思わせるペイズリーなどの、より大衆的で歴史の幅が広い要素が置かれる。ハイファッションとローファッション。知と大衆。フォーマルとストリート。本来なら階層の違いとして切り離される要素たちを、ボナーは同じ平面上に配置していく。
たとえば、深い赤のペイズリーのノーカラーシャツに、股上の深いストライプパンツを合わせ、足元はアディダスのスニーカー。これは民族衣装的な上半身と、都市のストリートが同居する組み合わせだが、全体に優雅さが効いているため、ルックは乱れない。

あるいは、ロング丈のストライプシャツの上に青いトラックジャケットを重ね、裾からシャツをあえて大きく覗かせ、さらに下にはスリーストライプの青いジャージを忍ばせる。そして足元には渋いブラウンの革靴。スポーツ、制服、フォーマル。それぞれ異なる意味を持つアイテムが一つのスタイルを作り上げていく。
ここで重要なのは、混ざり合っても混沌になっていないということだ。
その理由は、ボナーが選んでいる要素のほとんどが「伝統」に根ざしているからである。チェックやストライプだけでなく、スポーツウェアでさえ、ボナーが選ぶのは長い年月の中で、人々に受け入れられてきた歴史を持つ服だ。歴史の強度があるからこそ、異なる文化的背景を持つ要素同士がぶつかっても印象は崩れず、秩序が保たれる。それはまるでスタイリッシュな博物館のようでもある。
つまりボナーは、大衆的な要素と知的な文脈を、伝統という耐久性のある土台の上で編集しているのだ。
ここに見えるのは、スタイルによって知性を表現するという、非常に現代的な方法である。
ブランドの哲学や対社会的なメッセージを前面に押し出すのではなく、日常の服の選び方そのものに知の気配を滲ませる。華やかなラグジュアリーではなく、歴史の蓄積に裏打ちされた静かなラグジュアリーへ。〈Black Sunlight〉のルックには、その変換が巧みに仕込まれている。
大衆の服を知性へと昇華させること。その方法を、ボナーは誰にでも届く形で提示してみせた。
異なるリズムを“調和”として繋げるー2022年春夏〈Volta Jazz〉
これまでのボナーは、異なる文化や形式を接続するとき、あえて摩擦を残すことで創造性を立ち上げてきた。2021年春夏は「時間の歪み」を、2021年秋冬は「知性の編集」を表現し、どちらも異化効果を戦略的に扱っていた。
しかし、2022年春夏はその逆を行く。
先の2シーズンが「異なる要素を並列して歪みをつくる」構造だったのに対し、2022年春夏〈Volta Jazz〉は一貫して「調和」が実践されている。
スリムな輪郭、チェック、ストライプ、幾何学柄、70年代的なムード、そしてアディダスとのコラボレーション。扱う要素そのものは変わらない。しかし、それらの要素は今回は互いに競い合わず、自然に馴染むよう配慮されている。
無地の赤土色のオレンジはシャツに仕立てられ、ボトムにはグリーンを優しいトーンで調整したチェック柄のパンツを合わせている。以前なら「チェック・オン・チェック」といった具合に、個性を重ね合わせていただろう。
優しいクリーム色のセットアップは、ジャケットの袖だけがストライプ生地に切り替えられている。過去のシーズンなら、ストライプの生地が身頃を構成するパターンとして、使われていたかもしれない。しかも、斜めに配置して大胆さを見せていたのではないか。
ゆったりとした黒いクルーネックのトップスに袖を通し、土の光を受けたようなイエローのパンツを穿く。トップスの襟と袖口にはグラデーション模様が見られるが、ささやかなアクセントにとどまり、主張は抑制されている。

テーラードジャケットやシャツなどの都会的なウェアが作られ、スポーティでストリートなトラックスーツ、リゾート地を観光するようなフラワープリントのシャツも作られている。シーンの異なるスタイルが、一つのコレクションの中で混在するのはボナーの特色で、これも変わっていない。
〈Volta Jazz〉は、ボナーがハイブリッド思考の原点へ戻ったシーズンだ。
異和ではなく、同和。要素と要素がぶつかるのではなく、互いに相手を受け入れるように「整えられた接続」が貫かれている。背景にあるのは、西アフリカのスタジオポートレート文化や70年代の音楽シーンなど、明確な文脈の重層性である。しかしボナーはその文脈を強調するのではなく、相性のいい要素を選び出し、スムーズに接続して服に落とし込む。
これはビジネスの現場においても示唆が大きい。異なる個性をミックスする際、私たちはしばしば「差異」に注目しすぎる。しかし、ハイブリッド思考では、差異の強調だけが重要ではない。違いが自然に機能する組み合わせを模索することも、ハイブリッド思考には欠かせない。
今、世界では強い主張や尖った表現が注目を集めがちだ。そんな時代だからこそ、丁寧な調和が新鮮に映る。ハイブリッドとは、必ずしも衝突を必要としない。調和させることで、別の創造性を立ち上げることができる。〈Volta Jazz〉はそのことを伝える。
普遍のエルメスにどんな変化が訪れるだろうか?
エルメスは語りすぎない。それが価値になっている。変わらないものに安心を覚え、その静けさに美しさを感じる人は確かに存在する。だが、本当に何も変わらなければ、ブランドは価値を失っていく。支持される普遍を作るには、変化していないように見せながら、変化する必要がある。
ボナーなら、それができる。
2021年春夏〈Essence〉では、モダンな輪郭の中に古い色や編み目を差し込み、過去と今の境目を揺らした。2021年秋冬〈Black Sunlight〉では、チェックやストライプに詩や音楽を重ね、大衆と知性のあいだを軽やかに往復した。2022年春夏〈Volta Jazz〉では異なるリズムを整え、衝突のない調和へとまとめ上げた。
エルメスの遺産と、ボナーが培ってきた創造性。その二つを結びつける方法は、すでに〈Volta Jazz〉の中で示されている。いつも「違いを強くぶつければ価値が生まれる」わけではない。ハイブリッド思考とは、状況に応じて「異和か、同和か」を選択する姿勢でもある。そして、静かさを尊重するメゾンでは同和のアプローチが活きるはずだ。
エルメスにおけるボナーの挑戦が静かに始まる。
著者プロフィール:新井茂晃 /ファッションライター
2016年に「ファッションを読む」をコンセプトにした「AFFECTUS(アフェクトゥス)」をスタート。自身のウェブサイトやSNSを中心にファッションテキスト、展示会やショーの取材レポートを発表。「STUDIO VOICE」、「TOKION」、「流行通信」、「装苑」、「QUI」、「FASHONSNAP」、「WWDJAPAN」、「SSENSE」などでも執筆する。