遺言を書いた日、人生が変わった。外科医助手からファッション業界へ転身したKen Sakataさんのキャリア再編集 NEW

外科医助手として17年間キャリアを積み上げたのち、まったく経験のなかったファッションの世界へ飛び込んだKen Sakataさん。コンテンツクリエイターとして支持を集めながら、自身のアパレルブランド「Front Office」も立ち上げた。現在は、オーストラリアから日本に拠点を移し、新たなフェーズに進もうとしている。Ken Sakataさんの歩みは、単なるキャリアチェンジではなく、「自分の人生をどう再編集するか」という問いのようにも見える。彼はなぜファッションの世界に飛び込み、今何を考え、これから何をつくろうとしているのかを聞いた。
Ken Sakata(ケン・サカタ)さん/コンテンツクリエイター・デザイナー・Front Office Founder
オーストラリア出身。TikTokやInstagramにおいて、洗練されたショートフォームのストーリーテリングを通じて、自身の独学による学習とブランド構築のプロセスを発信し、グローバルなオーディエンスを獲得してきた。架空のフットボールクラブ「Queensland Football Club」を軸としたコンセプチュアルなプロジェクトにより注目を集め、イマジネーションとプロダクトの境界を横断するナラティブ主導のアプローチを提示。その延長線上に、デザインスタジオ兼アパレルブランド「Front Office」を設立し、現代メンズウェアに対する思索的かつ洗練された視点を体現している。
Instagram: @Sakata.ken
「遺言を書いたこと」が、人生を見直すきっかけに
— まず伺いたいのは、Kenさんがなぜファッションのコンテンツクリエイターという道を選んだのか。もともとは医療の世界にいらっしゃったんですよね。
そうです。もともとは外科医助手で、整形外科領域に17年間いました。骨や軟部組織の損傷、スポーツ障害、人工関節などの分野に携わっていました。
でも、コロナ禍で大きく考え方が変わりました。待機手術が止まり、前線に入る中で「念のため遺言を書いておくように」と言われたんです。そのとき、自分は20代と30代のほとんどを医療に捧げてきたけれど、この先さらに数年を費やして、本当に自分のやりたいことにたどり着けるのかと考えるようになりました。
家族にはもともとアートの土壌がありました。祖父は日本の陶芸家で、母は美術史を学んでいた。ただ、経済的な安定の大切さも家庭の中で強く共有されていたので、自分は“専門職”を選んだんです。その結果、お金の不安はなくなった一方で、「自分は本当に正しい場所にいるのか」という不安が残りました。
— そこから、どのようにファッションの世界へ入っていったのでしょうか。
最初は本当にゼロでした。知識も人脈もなく、独学です。服を作り始めても、モデルもフォトグラファーも雇えない。完全にひとりでやっていました。
その頃、アメリカでは小さなブランドの創業者が、自分でiPhoneを持ち、日々の舞台裏を発信するスタイルが少しずつ広がっていて、僕もそれを始めました。「自分は独学でデザインを学んでいる」「こうやって小さなビジネスを動かしている」と、その過程そのものをコンテンツにしたんです。
当時はそれが新鮮でした。ファッションは通常、とてもキュレーションされ、完成された世界として見せられますよね。でも、未完成でローファイな舞台裏を見せることに、ある種の面白さがあったんです。

— いまは、その“真正性”の意味も変わってきていると感じますか。
変わってきていると思います。以前は、ただ舞台裏を見せること自体に価値がありました。でもいま人が知りたいのは、単に「苦労している姿」ではない。「商品そのものに本当に価値があるのか」、「ブランドの約束は本物なのか」を見ていると思います。
つまり、オーセンティシティとは「私の苦労話」ではなく、「このプロダクトに本当に意味があるか」ということなんです。
ファッションはいま、非常に難しい局面にある
— グローバルに活動されている立場から見て、現在のファッション業界をどのように見ていますか。
すごく難しい時期だと思います。経済状況が不安定になると、業界全体が保守的になります。リスクを取ることや実験することが難しくなり、どうしても既存ブランドや既存の成功モデルに戻っていく。
一方で、ソーシャルメディアには大きなチャンスもあります。ブランドが自前で大きな実験をしにくくなる分、すでにある程度の視聴数やエンゲージメントを持つクリエイターと組むことで、新しいオーディエンスにアクセスしようとする流れもあります。
— その中で、Kenさんのようなクリエイターが果たす役割は何でしょうか。
伝統的なラグジュアリーマーケティングは今後も有効だと思います。ただ、それを成立させるコストが高すぎるんです。高品質なコンテンツを作っても、アルゴリズムやニュースの状況次第でまったく見られないこともある。そうすると、さらにお金をかけてブーストしなければいけない。
だから今は、同じ感情や価値をより低コストで、よりオーガニックに、より高頻度で届けられるかが問われていると思います。

学ぶためにブランドと組む。そこから自分のブランドへ進む
—「C.P. Company」や「Acronym」といったブランドと仕事をされていますが、Kenさんにとって、そうした関係は単なる案件ではないようにも見えます。
そうですね。今の自分にとって重要なのは、お金だけではなく“学び”があることです。「C.P. Company」や「Acronym」のようなブランドには、単なる商品以上に、会社としてのシステムや歴史があります。どうやって長く続くブランドを作っているのか、その構造に興味があります。
一着の服から学べることもありますが、それ以上に知りたいのは「どんな人たちが、どんな役割を担い、このブランドを動かしているのか」。長く続く会社には、必ず必要な機能がある。その設計にとても関心があります。
— ご自身のブランドを立ち上げた背景にも、その問題意識がつながっているのでしょうか。
つながっています。最初の3年間は、自分にとっての“学校”でした。コンテンツを通じて多くの人と出会い、学び、少しずつ自分の方向性を探っていった。その期間を経て、ようやくスタートラインに立てた感覚があります。
今は、日本の生地、日本の生産者、日本のパタンナーと一緒に、ブランドの第二章をつくろうとしているところです。以前出していたものとはかなり違う方向なので不安もありますが、オーセンティックなものをつくるには、それくらいの変化が必要だとも思っています。
小さくても、自分の意思で動けることが大切
— Kenさんはいま日本に拠点を移されています。その背景には何があったのでしょうか。
理由は2つあります。ひとつは実務的なことです。日本ベースのビジネスをオーストラリアから動かすのは、やはり難しい。フィットや質感、色など、触覚的な判断が必要な領域では、対面でないと限界があります。
もうひとつは、もっと概念的な理由です。私はハーフで、日本と西洋の両方を横断する感覚をデザインに取り入れてきました。でも、それだけ日本について語るなら、実際に日本に住み、人や文化と向き合う責任があると感じたんです。遠くから見ているだけでは、どこか抽象的で、オーセンティックではない気がしていました。
— 実際に日本に来てみて、何が一番印象的でしたか。
コミュニケーションの違いです。日本は非常にハイコンテクストな文化で、言葉として明示されない部分に多くの意味が含まれている。自分はローコンテクスト文化で育ってきたので、それを理解するのに時間がかかりました。日本に移るというのは、ただ生活環境を変えることではなく、思考や認識の前提を組み替えることなんだと感じています。
— 最後に、これから3年、5年を見据えたビジョンを教えてください。
いま自分は、メディアの仕事と服づくりの仕事、2つの事業を同時に育てています。どちらも小さなチームのまま、自立して回っていく状態をつくりたい。そして自分は、その両方に深く関わっていたい。
大きな会社を作って大きくスケールしていくことには、そこまで興味がありません。もちろんお金は事業に必要です。でも自分にとって人生の第二フェーズで大切なのは、“オートノミー”なんです。自分のペースで、自分の基準で、自分の仕事を定義できること。それが何より重要です。
取材・文:堀 弘人
撮影:船場拓真