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ラグジュアリーブランドのマネージャーが教える、グローバルキャリア成功のカギ Vol.5 海外勤務の大ピンチ話

ラグジュアリーブランドのマネージャーが教える、グローバルキャリア成功のカギ Vol.5 海外勤務の大ピンチ話 NEW

ラグジュアリーブランドの海外支社で働く――。そんな憧れを実際に叶えた、日本人男性・野﨑健太郎さん(ペンネーム)が綴るコラムです。日本人がグローバルで働く上で知っておきたいこと、海外のマーケット動向、キャリアアップしていくためのヒントとは……?これまでたくさんの挑戦と成功を重ねてきた野﨑さんだからこその視点や気づき、エピソードなどを交えながらお届けします!Vol.1Vol.2Vol.3Vol.4もぜひご覧ください)

4月といえば、日本では新生活の季節。新しい職場や学校が始まって、ようやく慣れてきた頃かと思います。今回は、「海外勤務の大ピンチ話」と題し、私が直面した様々なピンチや失敗を共有させていただきたいと思います。「海外で働く」と聞くと、なんとなくキラキラした姿を思い浮かべますが、実際にはヒヤヒヤするようなピンチやぞっとするような失敗の連続です。失敗は誰しも避けたいものですが、慣れない環境ではどうしても起きてしまいがち。それが海外なら、なおさら頻繁に起こります。私もこの3年間で何度もいや~な汗をかいたり、笑えない失敗をしたりしました。今回はそんな私のピンチや失敗談を共有することで、ぜひ「同じ轍を踏まないヒント」にしていただき、皆さんのピンチを未然に防ぐ、あるいは失敗の痛みを最小限にできればうれしいです。

飛行機に乗れない大ピンチ

2021年の12月21日。この日にシンガポールへの入国が許可され、私と家族は前日の深夜便の飛行機を予約していました。その数か月前、ようやくシンガポール政府から就労ビザがおり、家族の帯同ビザも取得して、いざ迎えた渡航でした。当時はまだコロナ禍の終盤で、海外渡航には厳しい制限が残っていました。そのためビザ取得のためだけでなく、渡航の際もたくさんの書類が必要でした。そのなかで必須だったのが、医療機関で発行されたコロナ陰性証明書。我が家は、2日前に比較的安価で検査をしてくれる町医者で証明書を出してもらっていました。家族とともに大量の荷物と書類を携えて出発の5時間前に羽田空港に到着。出発3時間前の午後9時、ようやくカウンターが開き、いざチェックインへ。しかし、スタッフの方は色々な人と話をしていてなかなか発券してくれません。ようやく戻ってきたスタッフの方から出た言葉は、「コロナの陰性証明が一部手書きの為、搭乗の許可はできません」。頭の中が真っ白になりました。代替案として「翌朝の成田発の便に振り替えるので、今夜中にPCR検査を受診し、手書きではない証明書を取得してください」とのことでした。

私は気が動転し、一度家に戻ろうかと諦めかけましたが、妻が「とにかく行こう」と背中を押してくれました。そこからワゴンタクシーで数万円かけて、いざ成田へ。午前1時頃に成田に到着し、24時間対応のPCR検査を一人5万円(高!)で受診し、空港内の寒いロビーのベンチで3歳と9歳の子供を寝かせながら、待つこと約2時間。ようやく証明書が手に入り、午前7時頃、無事にチェックインができました。この経緯を聞いて心配した私の母親はおにぎりを持って成田まで駆けつけてくれました。涙なしにはそのおにぎりは食べられず、忘れられない味になりました。現地に着いてからは1週間の隔離期間があったのですが、最初の2日間はとにかくずっと寝ていたほど疲労してしまいました。

この時の教訓は「渡航関連や通関関連の書類は、多少値段が高くても経験豊富なプロに頼む」。そして、不安があれば前日でも、空港チェックインカウンターへ行って書類を確認する。渡航書類、ビザやパスポートには十分に注意を払って何重にもチェックする。これが大事です。実はその後も懲りずに、ベトナムで飛行機に乗り遅れたことがあります(笑)。とにかく乗るまで、飛ぶまで、目的地に到着するまで、確認、確認、また確認が重要です。

歓迎会の二次会が苦手なカラオケ、しかも英語という小ピンチ

無事にシンガポールに入国し(家族全員分で20万円もしたPCR検査の書類はほとんどチェックされなかった……笑)、隔離期間を経て、いよいよ1月から勤務スタート。緊張しながらもどうにか職場に馴染み始めたころ、部署のメンバーがウェルカムディナーを開いてくれました。川沿いのおしゃれなメキシコ料理屋で和やかな雰囲気。上司もチームメイトもフラットな感じで、なかでも韓国人と香港人の同僚は私を気遣い、声をかけてくれます。ディナーが楽しく終わると「じゃあ2次会は、カラオケいこう!」という流れに……。実は、私は極端に声が低く、カラオケが苦手。一瞬迷いましたが「自分の歓迎会だし、先に帰るのもなぁ」と思い「僕は聴く専門だけど行くね」と参加することにしました。

最初は若手が率先して曲を入れ、聞いたことのある英語のポップソングを上手に歌います。そして次は上司(おしゃれで若いベトナム系オーストラリア人女性)、Radioheadの暗い曲を歌いあげます。その後も耳にしたことのあるポップソングを中心に盛り上がり、当然ながら「あなたも歌いなよー」とマイクを向けられます。何を歌えばよいのだろう……と私の頭はフル回転。英語で歌える曲なんてないし、日本の歌じゃわからないだろうしと、悩んでしまい答えが出ず、結局歌わずに終了となってしまいました。

その後も「あの時に何を歌えばよかったんだ」という疑問は頭の中に残りました。結論としては、もちろん「なんでも良い」のですが、3年経ったいま「日本のポップソングを歌えばよかったんだな」と思うようになりました。例えば、宇多田ヒカルの「First Love」や尾崎豊の 「I love You」。こうした大ヒットソングは中華系・韓国系の人気シンガーがカバーしていますので、アジア圏でも多くの人が知っています。とはいえ、あまり知られていない日本の曲でもまったく問題ありません。彼らは日本語のネイティブスピーカーが話す日本語に触れる機会が少ないので貴重な機会ととらえてくれるでしょう。無理せず、日本語で歌えばよいのです。もちろん親日家の同僚だけではないケースもあるでしょうから、一概には言えませんが。あまり周囲を気にせずに自分のペースでいることが一番大切です。

空港のトイレが空かない大ピンチ

最後に、クアラルンプールの空港での大ピンチについてお話ししたいと思います。ご存じの方も多いと思いますが、シンガポールからマレーシアへは飛行機だけでなく、陸路でも行くことができます。パスポートは必要ですが、ジョホールバルなら東京から横浜へ行くような感覚。クアラルンプールまでの距離感は、ちょうど東京から名古屋くらいです。飛行機の方が運賃は安いのですが、3人以上ならタクシーでシンガポールから行った方がむしろコストを抑えられる場合もあります。そんな”ご近所の距離感”ゆえに、つい国内出張のような気分になってしまいがちですが、どんなに近くてもそこはやはり“海外”。通関や書類のミスなどのトラブルは絶対に避けたいものです。

さて、ある日の早朝。シンガポールからクアラルンプールの空港に到着した私は、朝からなんとなくお腹の調子が怪しく、「入国したらとりあえずトイレに行こう」と心に決めていました。というのも、朝のクアラルンプールは渋滞がひどく、市内のホテルまでかなり時間がかかる可能性があるからです。最初はまだ余裕があったのですが、ラゲッジがなかなか出てこず、少しずつピンチ度が高まってきました。ようやく荷物を受け取り、急いでトイレへ。ところが、どの個室も赤ランプで「使用中」。

「うわー、参ったな」と冷や汗をかきながら、個室の前でじっと待ちます。しかし、なかなか空く気配がありません。そんなとき、民族衣装に身を包んだ70代くらいの男性がトイレに入ってきました。腰は大きく曲がり、杖をついて一歩ずつ歩く姿。周囲の様子もあまり見えていないようで、私の存在にもまったく気づいていません。そしてその方、なんと堂々と“使用中”と表示されたトイレのドアを次々にガタガタと開けようとするのです。しかも4つの個室すべてを。すると驚いたことに、3つの扉が開いたのです。

「えっ…??」

その方は私の存在などまったく気にせず、おもむろに個室のひとつへと入っていきました。そのときに感じたのが「海外では、黙って待っているだけでは何も進まない。自分の意思表示をして、能動的に動くことが大事」。

とてもシンプルだけど、つい日本的な感覚で「順番に待つ」「空いたら教えてくれるだろう」と思ってしまう自分に気づいた瞬間でもありました。

ご紹介した3つのピンチ、いかがでしたか。ピンチの瞬間ほど、異文化のリアルが見える気がします。皆さんもいつか海外で同じような状況になったら、ぜひ思い出してくださいね。扉が開いてなければ「ガタガタ」する精神。実はこれ、人生で一番大切な教訓かもしれません。

■著者プロフィール
野﨑健太郎
大学卒業後はモデルとして活動し、国内外のショーや広告などに出演。28歳のとき、大手量販店で販売のアルバイトを始める。その後、いくつかのラグジュアリーブランドでのストア、オフィス勤務を経て、2021年12月より某ブランドのシンガポール支社に勤務。趣味は高校時代から続けているサーフィン。

■ペンネームへ込めた想い
野﨑健太郎はペンネームで、尊敬する祖父の名前です。祖父は明治生まれで、西郷隆盛を思わせるような大きな体と味海苔をおでこに張り付けたような太い眉の持ち主でした。東京・五反田を拠点に京浜工業地帯で鉄を拾って歩き回り、町工場を営んでいた祖父。信条は「上天丼を食べたいなら、人の倍働け!」でした。残念ながら50代で亡くなり、直接会うことは叶いませんでしたが、この言葉は親戚を通じて私の耳に届き、私の心に深く刻まれています。祖父のハードワーク魂が自分に宿ることをこのペンネームに込めました。

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