元商社マン、ドイツ6部リーグの経営幹部へ。挫折の先に見つけた、没入できる仕事(前編) NEW

「自分にとって、働く上での幸せとは何か」。その問いと向き合い、9年勤めた三菱商事を辞め、海外で働く道を選んだ前川友穂さん。現在はドイツ6部リーグのサッカークラブ・FCバサラマインツでマネージングディレクターを務める。大学時代のラクロス部で抱いた問題意識を原点に、アメリカの大学院への留学、海外でのスポーツビジネスへの挑戦へ。しかし、その道のりは決して順風満帆ではなかった。
前川友穂さん/FCバサラマインツ マネージングディレクター
1989年、大阪府出身。関西学院大学商学部卒業。大学時代はラクロス部に所属し、関西選抜に選ばれるほか、主将を務めるなど活躍。2012年、新卒で三菱商事株式会社に入社。船舶・自動車分野で事業開発・経営管理・戦略企画に従事。2021年、同社退職。2021年、アメリカ・コロンビア大学大学院に入学、スポーツ経営学を学ぶ。2023年、同大学院修士課程修了。2024年、ドイツ・6部リーグのサッカークラブ「FCバサラマインツ」にてマネージングディレクターを務める。
「海外で働く日本人ってかっこいい」。原点は幼少期の出会い
― 前川さんは、新卒で三菱商事へご入社。第一志望だったそうですが、どのような志望理由でしたか。
就職先を考える上で、私には大きく2つの軸がありました。1つは「絶対、海外に出たい、海外と関わる仕事に就きたい」。もう1つは「ビジネスパーソンとして基礎能力を一番鍛えられる会社に入りたい」です。
自分なりに色々と調べた結果、人材投資が手厚く、多様な産業にアクセスできる点に魅力を感じ、総合商社に照準を絞りました。就活中に色々な方にお話を伺うなかで、三菱商事の社員は大局観を持って仕事されていると感じ、自分の理想像とも重なったことで第一志望に。
あとは、もともと三菱商事に強い憧れがあったことも影響しています。幼少期に、海外駐在中の社員の方にお会いしたことがあり、「海外で働く日本人って、なんてかっこいいんだ!」と魅了されたのです。私の強い海外志向も、その体験が根本にあります。
― 念願叶っての入社だったのですね。三菱商事を約9年勤め、ご退職されたのはなぜですか。
入社後、最初の4年間は船舶部門で主に中国・東南アジア向け大型一般商船・舶用機械の事業開発とファイナンスを担当。その後は自動車部門に異動し、チリにある関係会社、三菱自動車の経営管理、自動車事業の経営企画に5年ほど従事していました。ただ、自動車部門に異動後は、船舶部門で感じていたような意義、やりがいをなかなか見出せず、モヤモヤしていたんです。
ちょうどその頃、日本に「UNIVAS(大学スポーツ協会)」(※)が設立されたことを知りました。すると、自身が大学のラクロス部時代から抱えていた、“ある問い”がよぎったんです。「これから自分が取り組みたいのはこういうことだ!」とバチンときました。
※大学スポーツの振興を目的とする組織。大学スポーツを「教育」「安全」「競技力」「地域・社会とのつながり」などの面から支える。アメリカのNCAA(全米大学体育協会)を参考にして設立された。
「学生スポーツ間の格差は、なぜ生まれる?」。抱き続けた疑問
― ラクロス部時代に抱えていた問いとは。
大学4年の時、ラクロス部の主将だった私は、環境・運営面に悩んでいました。例えば、部員は100人ほどいるのに、部室はひとつで4畳半の広さ。専用グラウンドもなく、練習時は部員たちがお金を出し合って市民グラウンドを借り、原付バイクで30分かけて移動する状況でした。
ラクロス部は学内で歴史が最も浅く、組織としては未成熟。そのため、私は自らスポンサーを取ってきたり、広報活動に注力したりと奔走していたのです。
一方で、歴史があり名門として知られたアメリカンフットボール部は、専属コーチ、専用グラウンド、充実したトレーニング施設まで用意されていました。同じ学内で、ここまでの格差があることに大きな驚きと疑問を持っていたのです。
― 確かに、同じ大学内の運動部とは思えない環境格差ですね。
プレー研究のためによく見ていたアメリカの大学ラクロスの映像からも同様の衝撃を受けました。彼らは学生でありながら、大学から最新の防具を支給され、専用スタジアムで試合をし、全国放送までされている。同じ「学生スポーツ」なのに、なぜ日本とアメリカではここまで環境の差が生まれるのか、と。

― それで、日本の学生スポーツに寄与する仕事をしたくなったのですね。
そうです。気づけば、仕事をする傍ら、「どうしたら日本の学生スポーツは良くなるのだろう」、「自分と同じ苦労を、いまの学生にさせないためにはどうすべきか」、そんなことばかり考えていました。そして、先述した環境格差への“疑問”は、アメリカの学生スポーツの仕組みそのものへの強い関心にもつながっていきました。
そこで思い切って会社を辞め、ニューヨークのコロンビア大学大学院で学ぶことに。スポーツ経営学を学んで足場を固めたい、ネットワークを築きたい、アメリカの学生スポーツの現場を見たいという思いがありました。
「自分にとって働く上での幸せとは何か」を突きつめる
― 会社を辞めることに、迷いや未練はなかったのですか。
当時、会社では主力事業に携わっていましたし、海外駐在の話も出ていました。何より大好きな会社で、就労条件や社会的信用の点でも申し分ありません。簡単には手放せないものがあり過ぎて、一年くらいは迷っていました。
― 決断に至るまでには、どのような思考があったのでしょう。
キャリアを決める上では、やりがい、肩書き、収入、将来性など大事な要素がたくさんありますよね。虚栄心や世間体といったノイズが邪魔をすることもあります。
そこで私は、「自分にとって働く上での幸せとは何か?」を、とことん追求してみました。「自分は何に喜び、やりがいを感じるのか」という本質的な価値観を冷静に見つめ直してみたのです。
私が出した答えは「没入すること」でした。心から情熱を燃やせる仕事に全力を注ぎたい気持ちが強く、そこに大きな幸せを感じるのです。
当時の彼女(現在の妻)から言われた、「やりたいことがあるなら、挑戦すればええやん」という言葉が何よりも大きな後押しでした。それがなければ、この決断はできていなかったと思います。一方、両親は「なぜ今さらそんなリスクを背負う必要があるのか」と真逆の反応で(苦笑)。両親の大反対を押し切る形で、私はアメリカへと渡りました。

アメリカでの学びで得た、新たな気づき
― コロンビア大学大学院での学びはどうでしたか。
大学院では、トップオブトップの価値観やスタンダードに触れ、自分の視座を高めることを意識しました。
なかでもニューヨーク・ヤンキースの現役財務ディレクターや、元スタジアムマネージャー連盟会長、NFLニューヨーク・ジャイアンツのビジネスインテリジェンスのエグゼクティブの方など、スポーツビジネスの第一線で活躍する(していた)実務出身者が講師を務める授業やディスカッションは非常に有意義でしたね。授業の前後にかなり突っ込んだ質問しても気軽に答えてもらえました。講師やクラスメイトをはじめ、スポーツ業界とつながる様々な方とネットワークを築けたこともありがたかったです。
― ご自身のキャリアに繋がるような気づきはありましたか。
アメリカのスポーツ産業は、プロリーグ、学生スポーツ、フィットネス、スポーツテックなどが相互に連携し、巨大な市場規模と多様な収益源を持っています。個人・企業・機関投資などによる投資が非常にうまく機能し、産業を大きく成長・発展させているのです。
そうしたことを深く学べたのは収穫でした。そして、自身が将来的に日本の学生スポーツに貢献するにしても、まずは資本の力でチームやリーグを成長させていくようなキャリア経験を積みたいと考えるようになりました。

仕事を得るも、半年でクビに。訪れたどん底の日々
― 大学院ご卒業後は、どのように職探しを行ったのですか。
「とにかく海外で働こう!」と決めていました。あるとき、ACAフットボール・パートナーズという、シンガポールに拠点を置くサッカー事業会社を知りました。マルチクラブオーナーシップ(1つのオーナーや資本が複数のサッカークラブを所有・運営する)の会社で、当時、積極的にチームを買収しており、興味が湧きました。
そこでTwitterでCEOにDMを送ったところ、面談の機会をいただき、働くことになりました。私は経営企画のVice Presidentとして同社の事業管理や事業投資に従事するほか、CSOとしてベルギー2部リーグのチームのクラブ経営を担うことになり、ベルギーへと渡りました。
― ニューヨークから、ベルギーへ。順風満帆のスタートですね。
ところが、半年でクビになってしまったのです……。当時、クラブが経営難な上、会社自体も資金繰りに窮していたため、立て直す必要がありました。しかし、CEOと私の経営方針に大きな相違があり、溝が生まれてしまったことが主な要因だと思います。
― たった半年で職を失うとは、お辛かったと思います。
人生初めての経験で、頭の中は真っ白。自分はチームのために一生懸命考えて動いたけど、やり方が間違っていたのかもしれない、海外までついて来てくれた妻に申し訳ない……ショックやら情けないやら、複雑な感情が渦巻いていました。
かといって、こんなダサい自分で、絶対に日本に帰りたくなかった。大の負けず嫌いという性格もありますが、この経験をちゃんと消化してプラスに変えないと、この先の人生ずっと逃げ続けていくんだろうな、と思ったのです。
― その後、どうされたのですか。
死に物狂いで、職探しをスタートしました。ベルギーや周辺各国のサッカーチームに「雇ってくれないか」と飛び込みで訪問営業しました。しかし、結果は全敗。その後も苦戦し、ついに追い詰められた私は、ベルギーの職安のような所へも行きました。
「ゴミ清掃でもなんでもやるので、仕事を紹介してください!」
窓口から返ってきた言葉は「ビザの関係で紹介することはできない」
このときは本当にキツかった。帰り道、たまたま私の横をゴミ清掃車が通り過ぎていくのを見て、涙が溢れそうになりました。体力もあるし、経験もあるし、働く気も満々なのに、その仕事にすら就かせてもらえない。ビザという紙切れ一枚で、自分には「働く資格」すら与えられていない――そう思うと、自分の存在そのものを社会から認められていないような、悲しさと悔しさが込み上げてきたんです。
途方に暮れた前川さんは、その後どのように這い上がったのか。後編に続く。
取材・文/鈴木里映
撮影/岸本 絢